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2011年2月 (5)

2月11日、建築家 磯崎 新と、インターネットによる公募から選ばれた井上真吾、松原 慈、溝口至亮、Nosigner、鈴木清巳5人を登壇者に迎え、展覧会特別シンポジウムが行われました。

まずは本展ディレクターであり、今回はモデレーターも務める関から展覧会や、倉俣史朗とエットレ・ソットサスの生涯や仕事の軌跡について紹介。その後シンポジウムは2部構成で進みます。

関から話し手のバトンが渡されると、第一部は磯崎による「ポスト・フェスティウム(祭りの後に)――エットレ/シローの1975年」と題したレクチャーがスタート。磯崎はメンフィスが始まる前の時代、倉俣とエットレが何をしていたのか、どんな付き合いがあったのか、その時代を同じく過ごした目線で語りました。
レクチャーの中では、ソットサスと倉俣がそれぞれ参加していた展覧会についても紹介。1976年「MAN Trance FORMS」展でそれまでしていたような「デザインをしたくない」といってソットサスが出展した写真作品は、「芸術的ではなく、ただの写真であった」といいます。一方、1978年「間」展に磯崎たっての希望で参加した倉俣は、出来たばかりの硝子同士の接着技術を使って、硝子の板で瞑想の部屋を作りました。
60年代にはどれだけ目立つかが「デザイン」だったが、70年代は「自分自身とデザインを批評しながら追い詰めていく」という、複雑な思想をもったジェネレーションだったと、彼らを見ていた磯崎はのちに理解したといいます。
それからソットサスと倉俣のプロダクトを、磯崎自身の作品や現代の作家の作品と比較しながら紹介。メンフィス以前の時代から30年後の今、当時のものづくりの姿勢を復活させようとしている人たちがいるようだ、と磯崎は締めくくりました。

磯崎のレクチャーが終わると、5人の登壇者も登場。第二部は自らの活動や開発を発表した後、磯崎に質問をするかたちで始まりました。

当時と現代との違いや、似ている点、その中であるべき姿勢を語り合う中で、磯崎は倉俣やソットサスとのエピソードも披露。毎日1個ずつデザインをしていかないと追いつかないほど忙しかったという倉俣や、ソットサスとのユニークな会話の思い出に、会場からは笑い声も聴こえました。「現代に生きていたら2人は何をすると思いますか?」という質問に「昔と同じことをやるか、やらないかどっちかだろうと思う」と答えた磯崎。ものづくりに関わる環境や社会状勢が変化している中で知的に想像するのは難しいといいます。2人がいた時代を想像しながら、現代のこれから見据える登壇者たちの発言に、磯崎は大きく頷きました。

最後に関から、展覧会のキーとなっている1980年代がどのような時代だったかを質問。磯崎は「ポストモダンの時代に進む中間で、近代を否定しながらも次を見通せていたわけでもない、ごちゃごちゃとした時代だった」と答えました。かつての環境や情勢、デザインへの思考が、30年後に再びメジャーとなる「30年サイクル」の存在を説くと、倉俣やソットサスと過ごした80年代から30年たったのは今であると提言。以前と同じことをそのまま繰り返すのではなく、次に時代を作らなければならないのは君たちだ、と力強いエール送りました。
登壇者の背中をおす温かな拍手に包まれて、シンポジウムは終了となりました。

ある晩、私たちは三宅一生さんのスタジオに行きました。夕暮れ時で、街には夕闇が迫り、明かりが灯り始めていました。冷たい風が吹き、社員は皆帰った後でした。一生さんはまだ仕事が残っていると言って、部屋から出て行きました。残った私たちは大型テレビでフィルムを少々見た後、上階にある大きくてがらんとした部屋に行きました。白くて静かで、木製の長い床板が貼ってある部屋でした。部屋の真ん中に、一人の日本人女性が身じろぎもせずに立っていました。とても美しい女性で、顔を白塗りにし、豊かな黒髪をたたえ、前髪を額に垂らし、東洋的な黒い瞳をしていました。非常に大きな、インディゴ・ブラックのドレスを身にまとっています。肩には巨大なパッドが入っていて、パンツは袋のようにゆったりしていますが、裾は足首にぴったりフィットしています。その姿は東洋の彫像や護衛の侍のようで、切腹や戦闘の装束を思わせます。偉大でエロティックな古代の女王です。彼女はバレエのようにゆっくり腕を動かし始め、徐々に向きを変えた後、再び静止しました。そして、あふれんばかりの女性らしさを自身の内にみなぎらせていました。そうしてゆっくりお辞儀をした後、広いフロアの向こう側へと去って行きました。私もまた何も言わず、身じろぎもしないままでした。実際、感動して言葉が出なかったのです。一生さんは彼特有の少年のような笑顔を浮かべて、私を見ました。「してやったり」とでも言いたげな表情でした。
その間にすっかり日が暮れて、倉俣史朗さんが到着していました。私たちは倉俣さんと一緒に、彼が設計した寿司屋に行きました。店は黒ずくめで禅の要素が感じられ、赤い脂松(やにまつ)でできた艶やかなカウンターがありました。何時間もかけてあらゆる種類の寿司を食べたほか、かにみそなど、とても変わったものも食べました。当然お酒もずいぶん飲み、酔っぱらってディスコに行ったのですが、その後どうなったかは分かりません。覚えているのは、大勢の人々で混雑した午前3時の大通りで見た光景です。何百万もの電球やネオンといったライトやタクシーのサインが、光り輝いて燃え上がる河のように見えたのです。 そしてはるか頭上にあるセメント製の高架道路が、その河を脅かしているように見えました。

完璧なものを失うということは、常に起こります。魔法を見つけられなくなってしまうということも、常に起こります。私は昔、朝早く森でラズベリーを摘んだものですが、例えばそんな時間がそれに当たります。ありふれた想い出ですが、かつて存在し、失ってしまった完璧なものに対する個人的な想い出に、とても郷愁を感じます。実際、私は個人的な郷愁に取り憑かれているとともに、遠く太古の時代まで遡る公共の歴史に対する郷愁にも、どうやら取り憑かれているようです。その理由は、特別で完璧なものの一部は既に永久に失われてしまった、ということを痛感しているからです。私たちは様々なものを捨て続け、さよならを言い続けています。多分、課題は、完璧なものを新たに創作しようと努力することでしょう。とにかくあらゆる瞬間は完璧なものであり、完璧にすることができるのだと、考える努力をすることです。つまり、永久に郷愁を感じ続けることができる完璧なものを新たに創造することこそが、永遠の課題なのです。

エットレ・ソットサス

Photo: Guido Cegani

2月5日に、オープニングトーク「ソットサスの生きた時代とデザイン」が行われました。

トークは、「シロウとエットレと一緒の、雲のようにふんわりとした幸せな思い出に満ちた東京。二人のいない東京を訪れるのは不思議でさみしい」というエットレ・ソットサスのパートナー、バルバラ・ラディーチェ・ソットサスの挨拶から始まりました。

バルバラは、半年前に出版されたソットサスの自伝から、三宅一生や倉俣史朗も登場する、東京について書かれた文章の一節を紹介しました。

続いて、イタリアデザインに詳しい佐藤和子が登壇。戦後のモダンデザインの黄金時代を経て、社会と密接に関わる建築学生だったソットサスが、古い時代の分析から新しい世界を見通し、バルバラとともに「メンフィス」を立ち上げるまでのプロセスを、時代背景や空気感を交えて解説しました。

バルバラは、「メンフィス」のルーツを60年代にまでさかのぼり、消費者主義への批判から「人々は何をするべきか、人々はなぜデザインをするのか」を徹底的に追求したソットサスの、コンセプチュアルな活動を紹介。人類の運命とは、人間の権利とは、動物が求めるものとは何かを問う、デザインと建築への長い「瞑想」を経て、ソットサスはそれを実践にうつす時を迎えます。

1980年、デザインはプロトタイプではなく、生産・販売されなくてはならないとの考えから、ソットサスは国際的なグルーブ「メンフィス」を結成。デザインの新しい考え方や可能性を探求する展覧会を続けます。「椅子ではなく新しい座り方を模索した」ソットサス。一度も立ち止まることなく、常に新しいことに挑戦し続けた彼の姿を、バルバラは次の言葉で締めくくりました。

「私はコンパスで描いた円よりも、手で描いた円に守られている―エットレ・ソットサス」



続いて会場との質疑応答。展示作品の「カチナ」については、「デザインはグッドラック(幸運)をもたらすべき」と考えていたソットサスが、ホピ族の守り神を通して未知なる世界へ一歩近づきたかったのではと語るバルバラ。プライベートでは、「優しく、強く、好奇心にあふれ、人とは違う視点や視野を持っていた。人生を楽しむことが大好きで、でも仕事がないとナーバスになるほど仕事を愛していた」人物だったそう。

「メンフィス」を主導したソットサスについてのトークにふさわしく、会場は日本語、英語、イタリア語の飛び交う国際的で温かいムードに包まれました。

僕らが活動を始めた1960年代初頭は、日本も敗戦から立ち直り経済復興の真っ只中。優秀なデザイナーがたくさんいましたが、中でも倉俣さんはヒーロー的な存在でした。例えば、彼の素材の使い方。どんな素材も彼の手にかかると、見たこともない魅力的なデザインに生まれ変わっている。
人間的にも、仕事の上でも僕たちは皆、倉俣さんを心から尊敬していたのです。日本のデザインはギュッと詰まって無駄がなく合理的ですが、倉俣作品には不思議な空気感が満ちていて、僕らには表現できない世界なのです。彼と出会わなければ、僕の仕事も違っていただろうと思います。
ソットサスに最初に会ったのは、1960年代後半、パリの装飾美術館で開催されていたオリベッティの展覧会だったと思います。彼は建築家、デザイナー、詩人、写真家、まさに天賦の芸術家だった。同時に「メンフィス」のようなデザイン運動を仕掛け、雑誌『TERAZZO』を監修するような編集能力もあった。けれども、人は頭で行動するが、もっとも大切なのはフィーリング、タッチだと語ってくれました。
芳香を放ち続ける倉俣さんの作品と、彼が尊敬し影響を受けたソットサスのデザインを、次の時代をつくる人々にぜひ伝えたい。そんな思いで、「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展を企画しました。
(展覧会ブックより抜粋再構成)

三宅一生

はじめての打ち合わせで、三宅一生さんから本展について3つのメッセージをいただいたように感じました。「Not Period」、つまり単なる回顧展にはしたくない。デザインにおける夢と愛の大切さを発信したい。特に二人を知らない若者たちに......。
現在は二人が活躍した時代とは大きく変わりました。特に二人の交流が深まった1980年代の日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を体現する経済的絶頂期を謳歌し、その勢いを背景に日本人がようやく生活の質やデザインに目を向けた時代だったのです。そして30年がたち、ITやインターネットの普及、グローバリズムや市場主義への反省など、再び「デザインとは何か?」が問われています。
本展では、二人の作品とともに生前の映像や言葉、スライドショーを通して偉大なクリエイターの姿とデザインをありのままに表現いたしました。皆さまには二人による夢と愛に満ちた世界を体感し、デザイン再考の場になればと考えます。

関 康子(本展ディレクター)

展覧会ディレクター 関 康子によるウェブコラム
「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展への道 第7回(最終回)

「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展は、いよいよ明日2月2日オープンします。
本展は、2人の友情と夢と愛が主題。倉俣作品は2人の親交が深まった1980年代以降の家具と小物、またソットサス作品は最晩年のアートピース「カチナ」シリーズを展示。これらは、デザイナーとして30年以上のキャリアを持つ倉俣史朗と70年近く活動していたソットサスが、その長い創造という旅の末にたどり着いた表現であり、デザインの到達点ということができます。その作品から発せられるメッセージは、人の生や営み、創造やデザインへの限りない夢と愛が込められています。まだまだ寒い日が続いていますが、展覧会は2人の暖かな愛に満ちています。春の予感も感じる今日この頃、皆様のお越しを心よりお待ちしております。

さて、現在、2日のオープンを目前に会場施工の佳境を迎えています。刻一刻と出来上がる会場の模様をお届けしましょう。


1月20日、会場設営、倉俣作品搬入

展示構成はクラマタデザイン事務所のスタッフだった近藤康夫さんと五十嵐久枝さん、搬出入と施工は倉俣さんのデザインを知り尽くしているイシマルさんが担当しています。この日は、スペースづくりと倉俣作品の搬入が行われていました。

厳重な梱包を丁寧にほどいていきます。
2人の親交が深まるきっかけとなった「メンフィス」。そのアイコン的な作品であるソットサスデザインのカールトンも展示されます。いくつものパーツに分解されたカールトンは部位ごとに清掃、組み立てられていきます。今では、貴重なオリジナルです。
サンクンコート前のスペースに搬入された倉俣作品が集合。ここでコンディションを再度確認し、展示室に移動します。


1月22日、倉俣作品搬入終了

この日の夕方、倉俣作品の仮展示は終了。展覧会の企画者である三宅一生さんも下見に。展示のデザインは模型やCGでさんざん見ていましたが、やはりリアルな空間とは全く印象が違います。ソットサス作品は、ベルギーのギャラリー・ムルマンのムルマンさんの来日を待って展示。世界初公開、ソットサス最晩年のアートピース、今から楽しみ。

メンフィスのひとつ、スターピース製「TOKYO」は、重たくて組み立ても一苦労です。
山のようあった作品もほとんど展示され、「カビネ・ド・キュリオジテ」と「TOKYO」が出番を待っている。
エントランスでは、2人の親交のきっかけとなった「メンフィス」の作品が、皆さまをお出迎えします。


1月29日、オープン目前に

ソットサスのカチナシリーズも無事に展示終了。パネル類もすべて掲示されました。後は微細な調整を行いながら精度を高めていくこと。オープン前日である2月1日は、倉俣史朗さんの20年目の命日でもあります。いつもはご家族やごく親しい方々との集いですが、今年は21_21で迎えるオープン前夜となります。きっと、倉俣さんとソットサスの魂が作品に帰ってきて、私たちには聞こえない声で「やあ、久しぶり!」なんて、おしゃべりされるのではないでしょうか。

会場に搬入された「カチナ」の木箱
「未知なる者の魂、未知なるすべてのものの魂」であるカチナ。その魂が語りかけてくる。まさにソットサスの愛のメッセージ


さて、2カ月余りお付き合いいただきましたコラムですが、今回でいったん終了させていただきます。会期中は21_21のスタッフが引き続きレポートをお届けしますので、お楽しみください。
最後に、皆さまのお越しを、心よりお待ちいたしております。

関 康子

「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展への道 続編 へ